2012年4月7日土曜日

長田うどん 2

宮田輝氏が長田うどんの名前を有名にしたのは1に書いた。

1975年頃の話である。

子供だったので、ラジオ(テレビ?)でNHKのアナウンサーが宣伝して有名になった。

という漠然とした話しか知らなかったので、今回ネットでもう少し詳しく、何の番組だったのかを調べてみたが、どうも詳しいことはわからない。

氏はこの頃丁度NHKを退職しており、その発言がNHKのど自慢か何かで、香川を訪れたときになされた発言なのか、フリーランスになってからなのかは今ひとつ特定できなかった。

しかし、当時、NHKアナウンサーの発言により長田が沸騰したのは間違いがない。


ただ、このブームを今振り返ってみると、麺通団のものと最も異なるのは、ブームが長田だけで終わってしまい、讃岐うどん自体の底上げには殆どならなかった点である。


その後も長田はコンスタントに客を集め続けるが、長田を突出した頂点とする全体的な盛り上がりはすぐになくなり、更に20年の間、讃岐うどんはひっそりと水底に息を潜め続けるのである。



さて、今でも飲食業にとってはテレビに取り上げられるか取り上げられないかで大きな差があるのは間違いない。

今とは比較にならない神通力をテレビを持っていた頃の話であるから、周囲でも大きな話題となり、私の家族も父親の休みに坂出からマイカーで訪れることになった。

わざわざうどんを他のエリアまで食べに行った最初の思い出である。

さて、今なら坂出から満濃の長田まで大した移動ではない。

しかし、75年当時、道が悪かった。そして車も悪かった。

行くのは大変で、満濃は田舎だった。今でも満濃はちょっと田舎扱いされているが、当時は本当に行くのが大変だったのだ。

やっとたどり着いた通称「長田交差点」は車で溢れていたのを思い出す。

そしてまだ狭かった店内はごった返しており、NHKアナウンサーの発言をバックに背負った店員の対応は子供から見ても誠に横柄だったという記憶しかない。

ただ、上の下線部は、あくまでも当時の私の感想で、今思えば単にパニックになっていただけかもしれないし、やはり田舎の店なので、あまり接客、ということに力を入れていなかっただけかもしれない。

ともかく、1回目はうどんの味云々よりも、混んでいて大変だった、というイメージしかない。

しかし、数回通っているうちに印象は変わり、大好きな店になった。

混雑はその後も土日中心にコンスタントに続き、上で書いたように架橋未だならざる讃岐うどんブーム以前において、県内外から客を集め、行列ができていた唯一の店と言っても良い存在だった。

スタンダードな讃岐うどんはかな泉、ちょっとマニアックなのは長田うどん、そんな図式が長かったと思う。

前者はレストラン形式の優等生で、家族連れで行っても、県外者の接待で行っても、誰もが楽しめ、ゆったりできる。うどんも、極めて普通。

後者は釜揚げと、冷やししかない。天ぷらもないというかなり尖ったメニュー設定で、相席が当たり前、食券制で、讃岐うどんのアバウトさを楽しむという観点が全国的に敷衍されていなかった時代、県外者をとりあえず連れて行くのはなかなか勇気が必要だった。

今となっては、もっと面白い店が沢山有るので、長田も極めて普通の店のように見えるから面白いものである。
そして普遍的な観点からして普通だった、かな泉の様な店は殆ど消えてしまい、当のかな泉も当時の勢いは全く無い。




その後、80年代になり、原付という自由の翼を手に入れた私は、長田に足繁く通うことになる。

空いていても余程運が良くないと10分は待たされるので、この、消費自由の素晴しいダシをチビチビと飲みながら待つのが楽しみだった。

あんまり美味しくて止められず、食べた後は喉が渇いて仕方がない。アイスクリームをよく買って食べたのも良い思い出である。

長田と言えば、腰の強いうどんと同時に、このダシを特徴として挙げる人は大勢居る。ソノくらい個性の突出した孤高のだしである。



95年以降のうどんブームが訪れると、逆に長田は麺通団的な観点からは「面白くない店」としてちょっと下火になってゆく。

そしてこのブログの重要記事ではないので触れないが、いくつかのトラブルを経て、うどんの味も結構乱高下し、長田in香の香が分裂し、いった歴史を経て今に至る。

今は結構色々な面で安定しているんじゃないだろうか。

香の香も美味いが、やはり長田というとどうしても、満濃を思い浮かべ、せっかくならば満濃に行ってみたいと思ってしまうのだ。